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My story about Spirituality 

現在は「スピリチュアル」なことを仕事にしていますが、その昔、私はもう超がつく
アンチスピリチュアル
でした(笑)

これには、私の生い立ちが関係しています。

プロフィールなどにも書いていますが、私の実家は福岡の兼業農家でした。

九州という土地柄もあってか、男尊女卑と年功序列がはっきりしており、

加えて、田舎だったので、血縁や地縁がとても強い地域でした。

父方の祖父母と両親、そして弟との六人家族。
私の実家が長男の家系にあたるので、お盆や正月、法事の時には親戚がわらわらと集まってくるにぎやかな家でした。

そして、私の実家に霊媒師の方が、折々出入りしていました。(実家を離れて、これがあまり普通のことではないと知りました(笑))
病院にいっても原因がわからなかった体調不良が、その霊媒師さんの言ったとおりにすると、翌朝には治っていたり

私自身かなり予知夢を見ていたので、幼いころ見えない世界は私にとっては身近なものでした。

小学生くらいの時は、マンガの単行本よりも妖精の本やおまじないの本、占いの本を好んで読んでいました。

しかし、だんだんと「見えない世界」に対して嫌気がさしてきます。

当時、父の両親と同居して、いろいろと悩んでいた母は、実家に出入りする霊媒師さん以外にも、自分で見つけてきては
心配事があると、よく訪ねていました。

「みゆきちゃん、今度の試験は大丈夫だって」
「みゆきちゃん、○○には就職できるって」←ここには落ちました(笑)
「みゆきちゃん、○才ぐらいまでには結婚できるって」
「みゆきちゃん、子供はできるから大丈夫だって」

私はひとつも母に聞いてくれと頼んだことはありませんでした。
母なりの親心だったのかもしれませんが、私としては

「勝手に人の人生を決めるな」
「勝手に人の人生、のぞいてくるな」

というのが正直な気持ちでした。

「あぁ、もうわかったから!!」とうんざりしていました。

そして私から見た当時の母は、占いや霊媒師に頼ってばかりで、ぐちぐち言って、ひとつも幸せそうには見えませんでした。
占いとか見えない世界とかそんなものに頼るとろくなことにならない。
だから、私は見えるものだけを信じようと思ったのです。

​もう一度スピリチュアルへ
霊媒師がよく来る家

​スピリチュアルなんて大っ嫌いだった私

超がつくアンチスピリチュアルになった私は、見えない世界に頼ってもろくな事にはならない!と思い、
見える世界で、頑張って、周囲からも評価を得てきたわけです。

しかし、まったくもって自分の望んだ現実にならない。

好きなことをして生きていきたい。

ただ、それだけのことがうまくいかない。
好きだと思ってやってみたことがただただ自分を苦しくするばかり・・・。

 

私が本当に好きな事って何だろう。
私って何なんだろう。

その想いから、毛嫌いしていたスピリチュアルの世界に解を求めます。
インターネットが出始めたころだったので、ネットで情報を集めまくりました。

何かセッションを受けてみようと思ったら、それに対してポジティブな意見もネガティブな意見もいったん目にしてから

決めるようにしていました。

オーラソーマ、クリスタルヒーリングや催眠療法(ヒプノセラピー)などのヒーリングセッションを受けてみたり、

チャネリングやタロットなどのリーディングセッションを受けてみました。

自分で勉強すれば、もっと何かわかるかもしれない!と

直伝霊気の霊授(れいじゅ=霊気とよばれるヒーリングができるようになること)を受けたり、
アロマオイルでリーディングする方法を習ってみたり、ヨガや瞑想を習得したりしました。


すべては
私が本当に好きな事って何だろう。
私って何なんだろう。

そして
好きなことをして生きていきたい。
という想いからでした。

セッションを受けたり、セミナーを受けたりするなかで、自分がエンパスと呼ばれる共感能力が強い体質についてだったり、インディゴチルドレンと呼ばれる新しい世代に属するなど、今までにない自分に対してのスピリチュアルな知識を得ていきました。

そうした情報を得ると同時に、自分というものを見つめる時間を多く持つようになっていきました。
そして、見えない世界であるスピリチュアルを探求する過程において、ひとつ気づいたことがありました。

それはスピリチュアルは甘くない!ということです。

スピリチュアルに生きる=素の自分で生きる

スピリチュアル=Spiritualは訳すと「霊的な」という意味になります。
霊というのは「肉体に宿ってその活動をつかさどる精神的実体」のことを指しています。

簡単に言うと霊というのは「その人そのもの」

そしてスピリチュアルに生きるというのは天使に助けてもらうでも、神に助けてもらうでもなく、「その人そのもの」を臆することなく全面に現して生きることだ!という解に行きついたのです。

自分自身をさらけ出して生きる。私には正直、とても難しいことでした。

見えない世界というのは、突き詰めていくと「他人からは見えない世界」。

たとえば、霊視などは、霊能者さんだけが感じうるものを相談者に伝えているわけです。
占いは、占星術にしろ手相にしろあろ論理の上に成り立っていますが、やはり読み解く方がその論理の上から感じたことを
相談者に伝えます。

「自分にしかわからない世界」を相手に伝えているのです。

一方、見える世界というのはある意味「他人からも見える世界」になります。
成績や、資格などはその人が何ができるか、外からも分かりやすくしてくれてるのがいい例だと思います。

この世界は、ひとりでは生きていません。たくさんの人が関係しあって生きています。だからこそ、人間関係で皆さん悩むわけです。

私は、そうした関係し合う毎日において「周りから見たらどう映るだろう」をものすごく意識して生きていました。


たとえば、就職氷河期に「就職しない」選択肢は取れなかったのです。
なぜなら、親や親戚から「できないだめな子」と思われるのが怖かったんです。

英語を仕事にしようとしたのも、ずーっと掘り下げてみると英語ができることを親がとても望んだからということが見えてきました。

「周りが承認できる範囲で好きな事を選ぶ」というのが知らず知らずに習慣になっていました。

私にとって、スピリチュアルに生きるというのは、「周りが承認できる範囲」を飛びこえて「素の自分が望むこと」を選択することでした。

素の自分が望むことは自分以外は誰も承認してくれないかもしれません。もしかしたら眉をひそめられるかもしれません。

それでも「私はこれがしたいの!」「私はこう感じるの!」を発信する人生がスピリチュアルに生きる=素の自分で生きる
ことだと思うに至ったのです。

 

そして、素の自分が見えない限り「自分の本当の望みは見えない」ということも見えてきたのです。

​自分の望みを知るには、自分を好きになることから

素の自分というのは肩書きも、資格も、まわりからの評価も全部いったん脇に置いて、身分を証明するのが住民票くらいしかないような自分のこと。

まず、その状態の自分を感じること。そして、その素の自分をとにかく好きになること。

できないことがあってもいい。頑張れなくてもいい。


ちっぽけな自分を好きになること。そうすると、自ずと自分の好きなことが見えてきます。
他と比較したり、他を嫉妬したりすることが減ってくるので、不思議と自信も出てきます。

私は、この素の自分がなかなか好きにはなれませんでした。

英語ができたり、勉強ができたり、きちんと家事ができたり、資格を取ったりと見える世界での評価がすべてだとかたくなに信じていた私にとって、できない自分を認めるのはなかなかに難しいものでした。

しかし!

スピリチュアルは甘くない!(笑)

スピリチュアルな探求をすすめれば、すすめるほど、自分が認められない自分を目の当たりにする経験が増えていきました。
まるでそんな自分も認めようよといわんばかりに(笑)

そして、そんな認められない自分を認めるたびに、一気に人生の歯車が回り出しました。

ずっと探していた「私の好きな事」を見つけられたり、私を助けてくれる人に出会えたり、どこまでも信頼できる仲間に出会えたることができたのです。

 

私は長いこと自分の好きなことが見えなくなっていました。

自分の望みが何かわからなくなっていました。

 

その根底にあったのは「素の自分を受け入れられない」というものでした。

 

だから、今は「みんなが素の自分を好きになったらいいな」と思っています。


私が全く見えなくなっていた好きなことや望みをもう一度見つけて、人生を楽しめるようになったのは、

素の自分を認めて、好きになったことが一番おおきかったからです。


それであれば、私が素の自分をみつけ、好きになることができた甘くないスピリチュアルな方法で、

「自分の価値に気付いて輝く人を増やす」人生にしようと思ったのです。

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